質屋が語る、ルイヴィトン高価買取のコツ【歴史編】
目次
ルイ・ヴィトン(LouisVuitton)について
1821年2月2日、フランスの東部 フランシュ・コンテ地方、ジェラ山脈のアンシェイ村でルイ・ヴィトンは誕生しました。ルイの家は材木工場を営んでいて、父親はフランソワ・グザヴィエ・ヴィトン、母親はマリー・コロネ・ヴィトンと言って、ふたりの間に三男として誕生しました。
ルイが10歳の時に、彼のその後の人生を左右する衝撃的な事件が起こります。母親が5番目の子供を産んですぐに亡くなって、すぐの翌年に父親が再婚したのです。この義母との折り合いが悪かったのでしょう、ルイ・ヴィトンは14歳 1835年のこと、パリへ向けて家出をしてしまいました。
ルイは14歳で子供だったために、お金も何も持たずに家を出たために、パリへ向かう途中でいろいろな仕事をしながら旅を続けました。旅を続けるというより食べてゆくために、仕事はなんでもこなし、馬車番でも食堂のボーイでも何でもやりました。しかし、一番やりがいを感じたのは実家で経験のある木材に関わる仕事でした。そのために、材木関係の仕事があると聞けば、パリまで少し回り道になったとしても、その地方で仕事にありつきながら、1年以上かけて何とかパリにたどり着くことが出来ました。
パリへたどり着いたルイは、とりあえずの仕事を確保するために、オペラ座の近くのカプシーヌ大通りのフォーブルサントレノで、職人であるマレシャル氏に弟子入りして働き始めました。マレシャル氏はレティエ・アンバルールという、荷造り木箱を製造しながら荷造りもこなすという職人で、材木加工を身に着けたルイがこの仕事に没頭するのは、それほど時間はかかりませんでした。
レティエ・アンバルールとして仕事をはじめる
マレシャル氏とルイは一緒に仕事をしながら、多くの経験と技術を身に着けてゆきます。およそ10年間、ルイは休むことなく働き続けたために、その腕の良さを多くの貴族に認められ始めていました。当時のフランス貴族の間では「クリノリン」と呼ばれる金具で広げたスカートが流行していて、このスカートを保管して持ち運ぶ専門の職人が必要でした。また専門職人と共に、専用の木箱が必要になり、木箱の製造担当と、保管の荷造り担当の両方が必要とされていた時代でした。
30歳になった時、ルイはフランスでもっともすぐれた「荷造り木箱製造職人兼荷造り職人」になっていました。特にナポレオン3世の王妃であるウッジェニー・ド・モンティジョが結婚すると貴族の舞踏会や旅行が頻繁に行われるようになり、たくさんの「荷造り木箱製造職人兼荷造り職人」が宮廷に出入りするようになりましたが、ルイは皇后であるユージェニーの信頼を得ることに成功し、皇后ユージェニーの衣装の管理を専門に行う職人に抜擢されました。
アトリエ ルイヴィトンが発足
1854年、34歳になったルイ・ヴィトンはエミリー・クレマンス・パリオーと結婚することになります。そして、ルイの仕事に関しては技術力も知名度もとても高いものになっていて、それな師匠のマレシェルも認めるところになっていました。この頃、マレシェルは高齢のために引退を考えている時期でもありました。
ルイは考え抜いて自身の店舗を持つことを決心します。彼の立ち上げた店舗は世界最初の旅行鞄のアトリエ「ルイヴィトン」と命名され、開業とほぼ同時期に自作のトランクを発表します。当時のトランクは革製のトランクがほとんどでしたが、ルイの製作したトランクは防水性のあるコットン「グリ・トリアノン・キャンバス」を使用した画期的な商品でした。時代の先を読むことには長けていたルイ・ヴィトンは、馬車が移動の主流である時代から船や機関車での移動が主流になることを予想していました。そして、トランクも蓋の丸いトランクから、室内で積み上げることが可能な平らなトランクに移り変わることを予想していたのです。
新型トランクを製作発表
革よりも軽い防水性能に優れた「グリ・トリアノン」を使ったトランクは、軽くて丈夫なために当時の貴族から絶大な人気を得ました。とくにルイ・ヴィトンのトランクは、仕切りやトレー、ハンガー賭けなども設置されて使い勝手が良かったために、特に人気が出たのでした。
ルイ・ヴィトンの製造するトランクは世界中から注文が舞い込んで、会社は大きく拡大してゆきました。世界のセレブや貴族、皇族などからも特別仕様のトランクのオーダーも入るようになり、ルイ・ヴィトンのトランクはフランス国内ではもちろん、世界中で大躍進を遂げるのでした。
ルイ・ヴィトンが海外進出を積極的にこなしてゆくその一方で、彼らを悩ましたのが模造品の氾濫です。トランクの上に防水素材の布地を貼るという手法は、斬新ではありましたが容易に模造品を造ることが出来たために、1872年からルイ・ヴィトンは別の布地を使用するようになります。この記事は「レイエ・キャンバス」と呼ばれる赤色の縞模様、その後にベージュと茶色の縞模様に変化した記事でした。しかしこの記事もすぐに模造品が出てくるようになりました。
模造品との格闘
度重なる模造品の出現に対抗するために、ルイ・ヴィトンは1888年、息子のジョルジュのアイデアで、褐色とベージュの格子模様に「登録商標ルイ・ヴィトン」の表記をした「トアル・ダミエ」を発表します。この市松模様のデザインはその後のダミエラインの原型になっています。トアル・ダミエは登録商標されていたにも関わらず、再び模造品が出回るようになります。
度重なる模造品の出現に対抗して、創業者ルイ・ヴィトンのLVのイニシャルに、花と星を組み合わせたモノグラムラインを発表し、再び登録商標がなされました。当時のヨーロッパは日本文化が流行していて、モノグラムラインは発案者 ジョルジュは日本の家紋などからヒントを得たようです。当時のモノグラムの柄は現在の様なプリントではなく、職人の手書きだったために模造品を造ることが難しく、模造品は激減したと言われています。
ルイ・ヴィトン製のソフトバッグが発表
トランク中心だったルイ・ヴィトンの転換点は1959年に、3代目のガストン・ヴィトンがエジプト綿にビニール樹脂加工を施した弾力性が有りと加工のしやすく、頑丈なモノグラム・キャンバスを発表し、この素材を使ってソフトバッグの製造が可能になったことです。当時発表された「スピーディ」「キーポル」等は、現在でもルイ・ヴィトンの中心的商品になっていることを考えると、モノグラム・キャンパスの出現はルイ・ヴィトンにどれほどのインパクトがあったか想像に難くありません。
LVMHモエヘネシー・ルイ・ヴィトン発足
1978年には、ルイ・ヴィトンとモエ・ヘネシーの合併によってLVMHモエヘネシー・ルイ・ヴィトンが誕生し、世界最大級のファッションブランド帝国が出来上がりました。そして、1998年にはダミエラインが定番商品として復活し、モノグラムラインと双璧のラインに成長しています。
1999年にはデザイナーとしてマーク・ジェイコブスを迎え入れ、革新的なデザインの商品を発表します。この頃のルイ・ヴィトンは、外部のデザイナーとコラボレーションすることが多く、日本の村上隆もその一人です。村上隆とのコラボで「モノグラムマルチカラー」「モノグラム・パンダ」「モノグラム・チェリー」等が発表され、伝統あるモノグラムラインが斬新に生まれ変わっています。
ルイ・ヴィトンはこれからも伝統あるモノグラムライン、ダミエラインを中心に、これらのデザインを変化させながら、また、全く新しいデザインも想像しながらファッション業界の中心的存在の会社として成長してゆくでしょう。